たまきはる命に向かふ我が恋 弐





 懐にある愛しい人の体温があたたかくて、女らしい白く華奢な肩が愛らしくて、イズサミはなかなかカヤナを手放すことができなかった。背中に流れている濡れた黒髪を指先で弄びながら、次に彼女の口から出てくる言葉は何だろうと楽しみにしていた。上半身が裸のまま男に抱かれているのだ、これでもなお何も感じないというのならば、もはや彼女の本能的な部分が怪しく思えてくるだろうが、いつも強情で正直な彼女が一言も言葉を発さなくなっているのだから、これは手応えありだとイズサミは密かににやにやしていた。
 ああ、もしここが寝床ならば、すでに彼女の素肌に手や唇を這わせて一線を越えようとしているに違いない――さすがに野外で初めてを迎えるのは彼女の印象的にも良くないと思われるので、イズサミは今すぐ自分のものにしてしまいたい欲望に抵抗することに必死だった。
 かなり時間が経ち、雨に濡れた背中が風に当たって寒く感じてきた頃、カヤナはおずおずと両手でイズサミの胸を押した。見下ろすと、未だ女の二つの剥き出しの乳房があり、これはもはや拷問の域だろうと溜息をつくしかなかった。
 すると溜息に不安になったらしいカヤナの視線がイズサミに向けられた。

「怒って、いるのか」

 怯えているようにも聞こえる問いに、イズサミは拍子抜けした。記憶を呼び起こしてみれば、確かに彼女を木に押しつけたり羞恥心を煽るようなことをしたりと無理矢理だったところがあるかもしれない。むしろカヤナが怒ってしまっているのではないかという懸念があったが、そうでもなさそうなので、イズサミは安心しながら彼女に微笑みかけた。

「怒ってないよ」
「……誰の前でも同じことなどしない」

 やや拗ねた、しかし気弱な声で言いながら、彼女は小さく口を尖らせた。

「お前だから……」

 イズサミの服をぎゅうと握り、そんなことを口に出すものだから、たまらずカヤナの顎に指をやって顔を上げさせた。女の緑の瞳と白い肌、桃色に色づいた頬、そして血の色のように赤い唇は本当に美しく、眩暈を引き起こすほどだ。
 彼女の心はもはやイズサミという男にしか向けられていないのだ――分かってはいるものの、自分は元来嫉妬深い性格であり、彼女より優勢にあるというまたとないチャンスということもあって、言わずにはいられなかった。

「カヤナに仕えている人にも同じ事をしていたら、ボク、ちょっと残念だな……」

 おてんばな彼女を時おり連れ戻しに来る従者のことを言っているのだが、彼女は心底不思議そうな表情を浮かべ、

「セツマか? 彼は私の親代わりだからな。赤ん坊の頃から私の面倒を見ているし、裸を見たって何とも思わないだろう」

 などという。イズサミが記憶するに、確かあの男はカヤナより少し年上なだけだ。恋愛感情を抱く可能性がないとは言い切れない。

「あのさ……カヤナって、強いからかもしれないけど、男の人を少し甘く見てるよね」
「? だって、私の方が強いではないか。まあ、セツマは私の師だから私よりも強いけれども」

 それもまた不安な部分だ。彼女が万が一セツマに力でねじ伏せられそうになったとき、彼らに比べて非力なイズサミは助けてやることができない。
 この女性はつくづく鈍感だなとがっかりしつつ、イズサミは苦笑を浮かべてカヤナから身を離した。咄嗟に彼女は乳房を両腕で隠したが、ぐっしょりと濡れて腰から垂れ下がっている着物を羽織ろうとしないので、イズサミは露出を抑えるために着物の襟を取って着せようとした。しかしカヤナは拒否し、なぜかイズサミの懐に再び飛び込んだ。

「カ、カヤナ? どうしたの」
「……」

 沈黙である。このままでは二人とも風邪を引いてしまうと心配になってきて、帰ろうだのせめて服を乾かそうだの言ってみるのだが、彼女は頑なに口を閉じたまま動こうとしない。どうしたものかと困惑し、体温で温まってくれればよいのだがと彼女の身体を両腕で包み込むことで場をしのごうとした。しかし全身が濡れているうえ、また空から不穏な音が聞こえているし、あまりここに長居はできそうにない。

「カヤナ、ね、戻ろう? このままじゃ風邪を引くよ。カヤナが熱を出したりなんかしたら嫌だよ、ボク」
「イズサミ……」

 今度は甘えるように背中に両腕を回してくる。寒いのだろうか? 帰ろうと再三申し出たものの、彼女はうんと言ってくれない。二人とも身体が徐々に冷たくなってきていてイズサミは焦った。上手く翼の魔力が発動してくれれば飛び立てるかもしれないが、未だ自分の力は不安定で、飛んだはいいものの途中で落下するなどという事故が起きたら、それこそ災難だ。
 心配しているうちに、カヤナがイズサミの頬に自分の顔を寄せてきた。まるで猫が甘えたがっているかのようだ。彼女の珍しい行動が嬉しい反面、こんなことをしている場合ではないだろうという焦燥感があり、怒られてでも彼女を家に帰したほうがいいのではと考え始める。

「なあ……イズサミ。私がこんな気持ちを抱くのは、お前だけなんだぞ」

 それと似たようなことは先ほど聞いた、と帰りたいがために言い返そうとしたが、彼女がすねて続きを聞けなくなるのももったいない気がして、頷くだけにした。するとカヤナが、一体どうしたことかイズサミの着物の胸元に片手を這わせ始めた。何やら妖しい感じのする行動に、妙な気持ちを抱いて彼女の手を掴んで止める。

「カヤナ、ねえ……君の気持ちはよく分かってるよ。散々疑ってごめんね。風邪を引くからそろそろ」
「お前も私だけか?」

 相変わらず話は聞かないが、首をかしげ、そんな可愛いことを訊いてくる。イズサミは面食らいながら頷いた。

「そうだよ、他にいるわけないでしょ」
「本当に?」
「本当だよ」
「もし、私たちが家のせいで引き裂かれるときが来るとしても……」

 どこか強張っている声音に、もしやカヤナが今まで自身の心の中に仕舞っていたことを話し始めるのではとイズサミは緊張した。彼女は気の強い性格が災いして、自分の弱い部分や不安などを滅多に表に出すことがないのだ。もし今がそのきっかけだというのなら聞きたいと、先を促すために今度はイズサミが沈黙し、静寂を不安がらないように片手でカヤナの背中を愛撫し続けた。
 カヤナはイズサミの仕草に安堵している様子で、腕の中に収まったまま、ぽつりぽつりと後を続けた。

「たとえ、私とお前が形式的に結ばれないとしても、私たちは愛し合っているままだよな? 互いの家の仲は悪いが、私たちにはそんなもの関係が無いんだ。私はお前が好きで、お前は私が好きなんだ。それが変わることはないよな?」
「ええと……形式的って、つまり結婚ってこと?」

 そういった言葉が出てくることに驚いたが、その驚嘆を隠しつつ、イズサミはカヤナの手を握ったまま小さく唸った。

「うーん、ボクは、カヤナが別の人のものになるのは嫌だな……」
「なるわけがない。お前以外の男と結婚するなんて死んでも嫌だ」

 イズサミの心臓は跳ね上がった。まさかカヤナがそんなことを言い出すとは夢にも思っていなかったのだ。彼女は束縛を嫌う人間で、どこまでも自由でありたい人のように感じられていた。イズサミの手の届かないところまで飛んで行ってしまっても不思議ではない女性だった。
 カヤナに動揺が伝わってしまうのではないかと心配しつつ、何と返していいのかわからず、とりあえず意味もなく彼女の頬に小さな口づけを落とした。

「その……なんて言えばいいんだろう……カヤナ。あの、ボクと結婚してくれるの?」
「それが難しいかもしれないから訊いてるんだ」

 やや怒り気味の口調だ。どうやらカヤナは身内からヤスナとの確執について色々と言われているらしい。イズサミにも相談できなかったことで、今まで溜めていた不安や不満が噴出しているに違いない。
 彼女が本心を表してくれるのは嬉しいが、暴れ出されても困るため、ポンポンと頭を撫でてなだめてやる。

「確かに、家の人たちはいい顔をしないかもしれないね」
「もしかしたらタカマハラ家に味方する別の男と結婚させられるかもしれない。そんなことになったら私は家出する。そのとき、お前は私と一緒に逃げてくれるか?」

 顔を離し、イズサミの頬を両手で持って迫りながら、カヤナは真面目な面持ちで問うた。イズサミはいろんなことが急展開していることに瞠目していたが、彼女があまりに真剣な態度でいるため、戸惑いながらもこくりと頷いた。

「カヤナと一緒にいるためなら、ボクも逃げるよ」
「本当か? お前は別の誰かのものになったりしないよな?」
「しないよ。ボクにはカヤナしかいないもの。それにボクを好きな人間なんて……」

 きっといないし……と消え入りそうな声で呟くと、カヤナは呆れたような息をついてイズサミを睨んだ。

「お前なあ……自覚はないかもしれんが、なかなかの美男子なんだぞ」
「へ? そ、そうなの?」
「屋敷の女どもがひそひそと噂していた。性格はさておきイズサミはかなりの美少年だとな。それを聞いて嬉しい反面、なんだか妙に悔しかったんだ。お前が女どもからそういう目で見られているなんて……」

 もしかして嫉妬してくれているのだろうか? イズサミは嬉々として、カヤナの後頭部に手を当てると顔を引き寄せた。カヤナが目を丸くして驚いているのが見えたが、かまわず口づける。彼女は困惑したらしいが抵抗することなくイズサミの接吻を受け入れ、試しに舌を出し始めても厭がることはなかった。
 舌が触れ合うたびに、イズサミの腰から背中にかけて不思議な感覚が現れる。弱い電流が走っているような、ぞくぞくした感覚だ。両手が勝手に動き、カヤナの身体を這いまわる。口づけを受けている彼女の苦しげな呻き声が聞こえきて、イズサミは慌てて顔を離した。すると間近に頬を赤く染めた愛しい女性の顔が見えて、刹那、イズサミの頭の中で何かがはじけた。

「カヤナ」

 もう止まることはないだろう。

「好きだよ」 

 カヤナの口から答えが出る前に、イズサミは唇を塞いだ。今度は、激しく、強く。手が素肌に触れるたび、彼女の身体が小さく震えている。手のひらで押し上げるように柔らかな乳房に触れる。唇を離し、首筋を舐める。跡がつくほどに肌を吸い上げる。彼女のものとは思えないほど甘い声が響く。
 雨が降り始める。木陰にいても無数の葉から滴り落ちる滴が二人を容赦なく濡らす。足元は泥だらけだが、もうかまわなかった。熱を帯びた身体は雨の中で触れ合い、より高い熱を持って二人の愛を確実なものにしていた。彼女の、男の名を呼ぶ声が聞こえる。イズサミも女の名を呼び返す。甘くて切ない空気が周囲に充満していく。美しい花畑の中に祝福された二人の姿は強い雨にかき消され、いずれ見えなくなった。